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富士川渡船場跡(常夜灯)
ふじかわとせんばあと じょうやとう

常夜灯と富士川水運の功労者 角倉了以の顕彰碑(奥)

現地案内板

渡船「上り場」常夜灯  富士川町指定第23号

慶長七年(1602)六月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同一九年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。

「上り場」常夜灯は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政一三年(1830)正月、甲州三河岸・岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。

平成二年二月一日  富士川町教育委員会

角倉了以 翁の紀功碑
 京都の豪商、角倉了以(1554〜1614)・素庵(1571〜1632)の父子は、慶長12年(1607)同19年(1614)再度にわたり、幕府から富士川の開削を命じられました。その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢)の間約18里(71km)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩渕河岸は「下り米、上り潮」の中継地として繁栄しました。
 町では、了以の偉業を顕彰し、現代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成2年4月に再移転したものです。

平成二年四月二七日  富士川町教育委員会