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雁  堤
かりがねつつみ

今よりずっと東にうねり、氾濫によって周辺に大きな被害をもたらしていた富士川。その流れを治めたのがこの堤でした。

この地の代官だった古郡(ふるごおり)氏は親子3代に渡って堤の築造に尽力し、延宝2年、50余年にも及ぶ大工事を完成させました。

堤は雁の群が天を舞う姿に似ていることから「雁(かりがね)堤」と名付けられています。

現地案内板

雁堤(かりがね づつみ)
 富士川の流れは江戸時代のの始めまで加島平野(現富士市)をいくつもの支流をつくって流れ、たび重なる洪水は田畑に損害を与え、人々を苦しめていた。当時は、戦国の世が治まり新田開発が緊急の課題であり、これには、まず富士川の洪水を制する大堤防の築造が絶対条件であった。この難工事に取り組んだ古郡氏は、親子三代にわたり富士川との戦いの末この雁堤を完成させ、「加島五千国」と呼ばれる沃野、美田を誕生させた。
 雁堤は、岩本山の裾から松岡水神社に至る延々2.7kmに及ぶ大堤防であり、その形が雁が連なって空を飛んでいる姿に似ているとして名付けられた。
中里村の古郡孫太夫重高は最初に篭下村(現松岡)の開発に着目し、元和年間(1615〜1623)に岩本山の裾に一番出し、二番出しの水制(石積みの小堤防)を築き流路の変更を図り、その子、孫太夫重政は駿州代官に任用され、堤防の補強と各地からの入植者の協力を得て、新田開発に手腕を発揮した。しかし万治三年(1660)の大洪水は新田の大半を流失させる大被害をもたらした。重政はこの復旧のため、釜無川(山梨県の富士川上流部)の信玄堤を視察したりして「水を遊ばせ、流れを柔らかく受けとめる場所」をつくったらよいと考え、現在に見る広大な遊水池を備える堤防を計画した。
 重政の死後、遺志は子、文右衛門重年に引き継がれ、延宝二年(1674)遂に大堤防は完成した。
 古郡氏三代の50年余に及ぶこの治水事業は、工事途中においてもたびたび洪水に見舞われその都度やり直しをしなければならない、たいへんな難事業であった。このため神に加護を祈るための「中島天満宮」の創建とか、「人柱伝説」など苦心した様子が伝えられている。こうして完成した雁堤はその後、300余年富士川下流部の治水の要衝として加島平野の人々の生命、財産、を守り続けている。
雁堤は富士市発展の礎であり貴重な文化財であるとして昭和58年6月25日、富士市の史跡に指定されている。