| 一休や沢庵和尚と並んで庶民に親しまれた江戸中期の名僧 白隠禅師(1685〜1768)ゆかりの寺です。

地元の人が「白隠さん」と呼ぶ禅師は原の生まれ。十五才の時に松蔭寺で得度し、京で修行を積んだあと松蔭寺の住職になりました。(享保二年=1717年)
臨済宗の名僧として広く知られ、参勤交代の大名たちもしばしば寺に立ち寄ったといいます。
「擂り鉢の松」
特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として観光客に親しまれています。
原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。
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現地案内板
静岡県指定史跡
白隠禅師墓
指定昭和二十九年一月三十日
白隠禅師は、貞享二年(1685)十二月二十五日、駿河国原宿(沼津市原)長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。幼い頃から聡明で、六歳の時、お寺にお参りして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話を語って聞かせたといいます。
十五才の時、松蔭寺で出家し、慧鶴(えかく)と名付けられました。十九才のとき諸国行脚の旅に出、美濃・四国・京都などで修行しました。そして五百年に一人の名僧といわれ、臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。享保二年(1717)に松蔭寺に入り住持となり、その翌年白隠と号しました。白隠の名は全国に知れ渡り、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれました。
白隠はまた禅画にも堪能で、釈迦・達磨・観音などを好んで描きました。それらの禅画は松蔭寺などに多数現存しています。
明和五年(1768)十二月十一日、八十四才で入寂し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号を、明治天皇より正宗国師の諡号を送られています。
平成七年九月
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